2014年

10月

07日

リレー講義「蕁麻疹の鍼灸治療」補足2

講義が長引いてしまい、満足な実技ができませんでした。失礼しました。
講義が長引いてしまい、満足な実技ができませんでした。失礼しました。

諸痛痒瘡、皆属於心

リレー講義の続きです。今度は痒みについて考えてみます。⑤『素問 至真要大論篇 第七十四』のいわゆる病機十九条には、風による掉眩は肝に属すとか、湿による腫満は脾に属すといった条文が書かれていて、ここに「諸痛痒瘡、皆属於心」(諸々の痛み痒み瘡は、皆心に属す)という文があります。その下に小さく書かれている王冰(ひょっとすると林億?)の注釈には「心寂なれば微かに痛み、心躁なれば甚だしく痛む、百端之起は、皆自ずと心より生れる,痛み、癢み、瘡、瘍は心より生まれるなり」と書かれていて、心機能が傷害された程度によって痛みの強さも変わることを述べています。心は君主の官で、神明はこれより出づ(霊蘭秘典論篇)わけですし、精神の舎る所(霊枢・邪客)です。そして心は身の血脉を主る(痿論篇)のですから、心の働きが傷害されると精神に影響を及ぼすだけでなく、人の精神状態によっても血の循環に影響が及ぶということが考えられます。またレジュメの⑥から⑪までは、「諸痛痒瘡、皆属於心」に対する後代の医家の解釈を、時系列にそれぞれの著書から引っ張り出したものです。

 

⑥劉完素1152年『素問玄機原病式』「諸痛痒瘡瘍皆属心火」

⑦張従正1228年『儒門事親』「諸痛癢瘡瘍、皆属於心。丙丁火也、火鬱發之」

⑧呉昆1594年『素問呉注』「熱甚則痛,熱微則癢,瘡則熱灼之所致也。故火燔肌肉,近則痛,遠 則癢,灼于火則爛而瘡也。心爲火,故屬焉」

⑨張介賓1624年『類經』「熱甚則瘡痛,熱微則瘡痒。心屬火,其化熱,故瘡瘍皆屬於心也。然赫 曦之紀、其病瘡瘍、心邪盛也」

⑩李中梓1642年『内経知要』「熱甚則瘡痛、熱微則瘡癢、心主熱火之化,故痛癢諸瘡、皆属於心 也」

⑪高世栻1695年『素問直解』火、舊本訛心、今改。諸痛癢瘡、皆屬於手少陽三焦之火。諸寒厥而 固洩、皆屬於下。下、下焦也。諸痿痹而喘嘔皆屬於上。上、上焦也。是三焦火熱之氣有  餘、則諸瘡痛癢而病於外;三焦火熱之氣不足、則諸厥固洩、諸痿喘嘔、而病於内;以明三 焦之氣遊行於上下、出入於内外也。

 

劉完素と⑦張従正は金元時代の医者です。劉完素は25歳から60歳まで素問の研究を続けて病機十九条を分析し、六気が過ぎれば皆火と化すという「火熱論」を提唱した人です。病のほとんどは火熱によるものだとし、「痛痒瘡瘍はみな心火に属す」と言っています。張従正も寒涼剤を多用した人です。彼の著書『儒門事親』「瘡癮疹一百」で、小児の蕁麻疹や瘡のとき、辛温で発散させる薬(升麻湯)は使うなと言っています。「五寅五申の歳は少陽相火の歳にて、この病を発することが多く、また諸痛痒瘡瘍は皆心火に属すため、辛温之剤で発散させると、熱勢がかえって増し、だんだんと蔵に毒がたまって下血し、ひきつけや痙攣をおこす。白虎加人参湯、凉膈加桔梗当帰湯が良い」と言っています。現在でも蕁麻疹の処方に使われています。⑧呉昆⑨張景岳(介賓⑩李中梓は明代の医者です。三者ともに、熱が甚だしければ痛み、熱が微かならば痒むということと、心は火に属し、火が熱と化して発症するという点は一致しています。張景岳のいう「赫曦之紀は心邪が盛んになり、瘡瘍を病む」とは、戊子、戊午、戊寅、戊申の四年には、火が大過して熱気が流行し、肺も熱を受けて喘咳し、身熱して皮膚痛む、という運気学説です。⑪高世栻(士宗)は清代の医学者です。病機十九条の諸痛癢瘡、皆屬於心の心は誤りとし、「心」を「火」とし、そのひとつ前の条文である諸熱瞀瘛、皆屬於火の「火」を「心」に入れ替えて、諸痛癢瘡は手少陽三焦の火に属すと改めました。痿、痹、喘、嘔などがおこる理由は、三焦の火熱が有餘したために外において病むためであり、反対に三焦の火熱が不足すると、寒、厥、固泄は下焦にて、痿、喘、嘔は内において病むとし、これは三焦の気が上下に遊行し、内外に出入するためであると言っています。

 

『素問』第六十六~七十五篇までの運気七篇は、唐代に素問を整理した王冰が剽窃したとされており、素問の研究者からは素問とは別物として扱われています。『素問訳注』にも省かれていますし、丸山昌朗先生の『素問・鍼経の栞』も同様です。柴崎保三先生の『黄帝内経素問新義解抜粋集』には運気七編も載っていますが、文字量が膨大で通解を読むだけでも大変です。何度も寝落ちして進みませんが、金元四大家や張景岳などの書を理解するのに運気は必要なので少しずつ読んでいます。また、『素問訳注』の第三巻に付録された運気概略には、生気象学としての運気論のしくみが詳しく書かれています。家本誠一先生は、「『素問』、『霊枢』の気象医学は経験的合理性を持ち、その理論的基礎である陰陽四時は日常の経験に合致しており、常識的に納得できる」とし、「運気の気象学説は思弁的観念的であり、五運と六気を基礎として理論的に構築された規格品であり、故に総合的体系的ではあるが、作り物の感は免れない」と述べています。私たち鍼灸師はこの点に注意して物事を見極める必要があるのではないでしょうか。運気学説は五運六気を用いて十干と十二支を組み合わし、気候の変化が自然界と人体に与える影響を説明したものですが、あまり偏ると医療よりも占いの性格が強くなります。とはいえ、『至真要大論篇』に書かれている病機十九条は重要だと思います。今回蕁麻疹の症例を病理考察するにあたり、とても参考になりました。原文を載せておきます。

 

帝曰.願聞病機何如.

岐伯曰.諸風掉眩.皆屬於肝.諸寒收引.皆屬於腎.諸氣膹鬱.皆屬於肺.諸濕腫滿.皆屬於脾.諸熱瞀瘛.皆屬於火.諸痛痒瘡.皆屬於心.諸厥固泄.皆屬於下.諸痿喘嘔.皆屬於上.諸禁鼓慄.如喪神守.皆屬於火.諸痙項強.皆屬於濕.諸逆衝上.皆屬於火.諸脹腹大.皆屬於熱.諸躁狂越.皆屬於火.諸暴強直.皆屬於風.諸病有聲.鼓之如鼓.皆屬於熱.諸病胕腫.疼酸驚駭.皆屬於火.諸轉反戻.水液渾濁.皆屬於熱.諸病水液.澄澈清冷.皆屬於寒.諸嘔吐酸.暴注下迫.皆屬於熱.

 

続く⑫『鍼灸重宝記』で本郷正豊は、「経に曰く、諸痛、痒、瘡瘍は皆心に属す、蓋し心は血を主て、気を行らす、若し、気血凝り滞り、心火の熱を挟んで、癰疽のたぐひを生ず」と言っていますが、この経に曰くとは、正に病機十九条の条文のことを指しています。解説で小野文恵先生は、「心は血を主り血を行らすのであるが、気血の凝滞によって心火の熱を生じてくると癰疽の類を生じる」と述べています。また、「癰、疽、癤、瘡の生ずるのは魚肉や美食をするもの、体が楽すぎて運動不足なもの、色慾を過度して水虚火動等によりて熱毒を生じ、その熱毒が内に攻めて気血を煎りこがして生ずる」と、飲食労倦や房事過多によって腫れ物ができることを言っており、脾虚や腎虚などの陰虚から心の熱になることを説明しています。

 

 以下、レジュメの⑬『経絡治療講話』、⑭『鍼灸臨床弁証論治』、⑮『日本鍼灸医学 臨床篇』における蕁麻疹についての補足は省略しますが、⑬で本間祥白先生は、皮膚は肺が主り、腠理開閉の調節如何によって外邪が侵入することや、痒みは虚で痛みは実であること、血虚によって皮膚を栄しないときに痒みが出ることをのべています。また⑭李世珍先生は蕁麻疹を病理によって6種類の型にわけており、脈状や舌、治療穴を記載しています。風寒による蕁麻疹では脈が沈まずに浮くことが参考になりました。⑮では蕁麻疹を脾虚熱証と脾虚肝実証とし、主に食べものによるものと原因不明によるものとして説明しています。

 

以上でリレー講義の補足を終わります。

 

私見:火熱の原因は食にあり?

腹を冷ます中国人
腹を冷ます中国人

中国では腹を出している人を多く見かけます。それは単に天気が暑いからという理由だけでなく、腹が熱いから冷ましているのだと思います。原因は食生活にありそうです。中国人(漢族)の油の摂取量は日本人より格段に多く、味付けも濃厚です。もちろん地域によって差はあります。福建や広東地方は割りと淡白ですが、和食ほどあっさりはしていません。中国では基本的に火を通したものしか食べないし、炒め物にラードを使います。また食事時に飲む白酒は度数が50度以上もあるので、胃腸には相当に熱が発生するはずです。ましてや、じゃんけんが始まれば一瓶空けてしまう勢いですので、彼らは相当に脾胃が強い民族であることがわかります。だから腹を出して冷ます必要があるのでしょう。

 

一方で、日本人は腹を冷やさないようにと気を使います。腹巻は日本人の胃腸の弱さを象徴する文化と言えるかもしれません。貝原益軒は『養生訓』で、「諸獣の肉は、日本の人、腸胃薄弱なる故に宜しからず、多く食ふべからず」、「肉も菜も大いに切たる物、又、丸ながら煮たるは皆気をふさぎてつかへやすし」と戒めています。また、「中華、朝鮮の人は、脾胃強し。飯多く食し、六畜の肉を多く食つても害なし。日本人は是にことなり、多く穀肉を食すれば、やぶられやすし。是日本人の異国の人より体気よはき故也」と言っていますので、昔から食の習慣によって中国、朝鮮半島の人は熱を持ちやすい傾向にあり、日本人は冷えやすい傾向にあるのだと思います。フーテンの寅さんも、丹下段平も、バカボンのパパも脾胃をしっかりと守っていたわけです。

 

中国では肉の脂身の部分が好まれます。たいてい駅前の食堂に行くと蒸し器から湯気が上がっていて、扣肉(豚の脂身と菜っ葉)が食べられます。とても美味しいのですが、途中からくどくなります。でも周りの中国人はどんぶり飯で平らげてしまうのです。ふと思いついたのですが、日本でも有名な坡肉は11世紀に蘇軾(蘇東)が考案したとされ、中国には蒸留技術も9世紀頃にはあったそうです。火熱論を提唱した劉完素は12世紀の人ですから、その頃には白酒を飲みながら坡肉などを食べて胃腸に熱を持った人が多かった可能性があります。ひょっとしたら当時の中国人も腹を出していたかもしれません。ちなみに蘇軾の故郷、四川省眉山で食べた東坡肘子は忘れられないほど美味しかったです。25年近く経ったけど、また食べに行きたいなと思うほどです。

 

辛い味付けを好む地域(四川・湖南・雲南・貴州等)なら、なおさら体内の熱が旺盛になります。人の声が大きいのも、街中で喧嘩が多いのも納得できます。私は昆明で生活したことがありますが、初めは激辛の米線を食べる人が信じられませんでした。が、だんだんと舌が慣れてしまい、辛くないと物足りなく感じるようになるのです。かといって脾胃は強くないから下痢をする。そういう生活を続けていたら、2年後に痔瘻になってしまいました。東京の病院で手術をしたのですが、そこに偶然にも、私と同じ昆明の学校に1年違いで留学していた人が入院していたのです。彼もまた痔瘻でした。話を聞くと、私と同じように辛さと油っこさのために下痢を繰り返していたそうです。中国の学食では、ホーローのどんぶりにぶっかけ飯(おかず2~3種)でしたが、生徒は歩きながら食べ始めて、自室に戻る頃には半分以上食べ終わっています。その理由は調理にラードを使うので、冷めると油が固まって不味くなるからでした。当然、油の摂取量が多く、脾胃の弱い日本人には向いていませんでした。

 

そう考えると、日本人と中国人では病気の傾向も違うだろうし、鍼の刺激量や薬量も異なって当然です。私たちはその違いを踏まえて中国の書物を読む必要があると思います。

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2014年

10月

02日

リレー講義「蕁麻疹の鍼灸治療」の補足1

先日の弦躋塾セミナーで私が行なったリレー講義から、2)の「蕁麻疹と痒みに関する東洋医学の文献」について補足します。この項では、昔から現代に至るまで蕁麻疹や痒みがどのように考えられてきたかということを紹介し、素問の条文から病理考察をして、痒みがなぜ起きるのか、また経絡治療的にはどのような証が立つか考えてみるのが目標でした。レジュメには、①『馬王堆帛書 五十二病方』から⑮『日本鍼灸医学臨床篇 蕁麻疹』まで時系列に原文を載せてあります。ここでは解説と意訳をしますので、原文と照らし合わせて読んで下さい。

リレー講義「蕁麻疹の鍼灸治療」
リレー講義「蕁麻疹の鍼灸治療」

①は『馬王堆医書 五十二病方』から「身疕」について抜粋したものです。15項あるうちの4つの条文を抜き出しました。疕は潰瘍とか乾癬の類とされているようですが、蕁麻疹のことを言っているのではないかという説も中国のサイトにあり、そのような読み方もできると思いました。治療法が原始的で、鍼灸師には大して重要な記述でもありませんが、おそらく前漢初期の長沙国ではこういう治療がされていたようです。石田秀実先生が言われるように、貴族のための家庭用医学書だったのかもしれません。医学竹簡が出てきた3号墓は長沙国の相で軑侯だった利蒼の息子ものとされ、埋葬年は前168年頃なので、五十二病方に書かれた記述はそれより古いことになります。


 疕母(毋)名而养(痒),用陵(菱)敊(枝) 熬,冶之,以犬胆和以傅之。傅之久者,辄停三日,三,疕已,尝试。令四一九。

身体に疕を患い、名無きにして痒きものは、ヒシの実を煮てすりつぶし、犬胆と調合して塗る。塗る時間が長すぎたら三日止める。3クールで治る。名無きにして痒いできものは、このように治療すればよい。419

ここでは蕁麻疹になって痒いときの治療法が書かれている、という読み方ができます。

条文の最後の数字は通し番号です。

 

久疕不已,乾夸(刳)灶,渍以傅之,已422。

長期に疕を患って治らない者は、煙突の中の灰をこそぎ、水を用いて調合し、患部に塗ればよい。422

これは慢性蕁麻疹の治療法と思われます。


行山中而疕出其身,如牛目是胃(谓)日□423。

山に行くと、突然に体が痒くなり、牛の目のように腫れるのは、日光が・・・。423

古代の人は太陽に原因があると考えたようですが、山に行ったのですから、実際はジンマのような、植物の毒による蕁麻疹ではないかと考えられます。


露疕,燔饭焦,冶,以久膏和傅424。 

肌を露出したところにできた疕は、鍋の焦げを砕いて炭とし、長年保管した豚のあぶらと調合し、患部に塗るとよい。424

これは日光性蕁麻疹の治療法と思われます。

② は『素問・四時刺逆從論篇 第六十四』からの抜粋で、蕁麻疹について書かれた条文です。ここから蕁麻疹が出る理由を考えてみます。


少陰有餘病皮痺隱軫。不足病肺痺。

少陰有餘なるときは皮痺を病み隱軫す。不足なるときは肺痺を病む。

癮疹は蕁麻疹のことです。少陰が有餘すると皮痺を病んで蕁麻疹になり、不足すると肺痺を病むと言ってます。では「少陰」とは何のことでしょうか。また皮痺、肺痺とはどんな状態でしょうか。『素問訳注』の説明では、皮痺は「アレルギー性の疾患群」とし、肺痺は「皮痹が治癒せず、さらに風寒湿の邪気が奥に進んで肺を犯した状態、慢性の肺疾患」とあります。そうすると、少陰有餘の状態がさらに亢進して肺痺になるということであり、「不足なるときは肺痺を病む」という条文と矛盾するのではないかと思いました。『素問・痺論篇』によると、痺とは「風寒湿の邪が混合して身体に侵入し、気血の運行が閉塞しておきる病」とあります。とすると、少陰有餘とは風寒湿の邪気が少陰腎経に有餘したために、皮膚において気血の運行が閉塞したということなのかもしれません。これを『素問訳注』では、「少陰腎経は肺の中を通って咽喉に至るので、その障害時には肺の症状が出る」と説明しています。つまり少陰腎経に邪気が盛んで肺が弱った結果、皮痺を病んで蕁麻疹が出るということです。ふつう外邪は体表から中へと侵入するのですが、ここでは寒邪が直中して、すでに少陰病になってしまった状態を言っているのかもしれません。しかし、そうすると蕁麻疹よりも腹痛とか泄瀉といった症状が出るはずです。

 

また不足については、「精気が不足して虚したときは肺痺となる」と書いてあります。先ほどの肺痺の説明では、皮痺が治らず、さらに風寒湿の邪が奥に進んで肺痺になるとありました。少陰病からさらに陽虚が進んで肺が冷えてしまうというケースもあるので、ここでは腎の精気が虚して寒症状となり、肺痺をおこしたケースが考えられます。つまり、少陰有余と不足では少陰の意味が違っているわけです。『素問訳注』では、少陰有餘とは腎経に邪気が盛んな状態で、不足とは腎精が虚してさらに邪気の勢いが強まった状態を表わしているといえます。

 

そこで今度は『素問校釈』(人民衛生出版社)を見てみますと、少陰有餘病皮痺隱軫について、「少陰君火の気が有余して上り、肺を犯し、肺の合である皮が痺となり蕁麻疹がでる」とありました。この説明は張景岳の『類経』の解釈が元ネタになっていて、「少陰者君火之気也、火盛則克金、皮者肺之合、故為皮痺」というのがそれです。ここでの少陰とは腎の陽気を指しているようです。これを病理的に解釈すると、腎の陰虚で虚熱が上がって心熱が亢進し、さらに上にある肺が熱せられた結果、肺の合である皮が痺となり蕁麻疹が出ると考えられます。そうすると、これは風寒湿の外邪の侵入ではなく、内熱によって皮痺が生じたケースを述べているのだという解釈もできます。不足病肺痺については、「君火の熱が不足すると肺金が畏れなくなり、燥邪が独り盛んとなって肺痺になる」とありました。この解釈も『類経』の「火不足則金无所畏、燥邪独勝、故病為肺痺」の注釈と同じです。これを、腎の陽気が足りず、肺の陽気も虚したところに、風寒の邪に犯されて呼吸器疾患と冷えの症状を現した状態と考えると、『素問訳注』の解釈と同じ病理になります。張景岳は燥邪と言ってますが、素問の条文に燥は出てこないですし、風も乾燥させる性質をもっているので、風寒により、冷えて乾燥した状態のことを指していると思われます。

 

余談ですが、秋から冬の北京は冷えと乾燥が厳しく、湿潤な気候に慣れた日本人が行くと、唇はひび割れてガサガサになり、鼻の粘膜も乾ききって鼻血が出ます。きっと紹興で育った張景岳も、冬の北京の冷えと乾燥に苦しめられたのではないでしょうか。そう考えると、カロリー高めで油っこい北京料理が地元の人々に好まれる理由もわかります。寒さと乾燥に耐えるために自然とああいう食生活になったのでしょう。でも、茶漬けと梅干を食べている日本人にはしつこいです。烤鴨や涮羊肉は確かに美味しいけど、一回食べると「もう当分いいや」という気分になりますから。

 

以上、この条文から自分なりに蕁麻疹が出る理由と証について考えてみますと、「少陰有餘なるときは皮痺をやみ隱軫す」とは、腎の津液が虚して虚熱が胸に上がって心熱が亢進し、さらに上にある肺に影響が及んだ結果、肺の合である皮が痺となり蕁麻疹が出るというケースを述べているのだと思います。経絡治療の証でいえば腎虚心熱証になります。この場合、尺中の脈はしまりが無くなって浮いてくるだろうし、左寸口は実で強く打つことが予想できます。単に腎虚証と捉えてもいいのですが、陰虚(腎虚熱証)ですから、治療は水を補ってから熱の及んだ経を寫すことになります。レジュメの3)蕁麻疹の症例で発表した患者さんがこのタイプでした。また、「不足なるときは肺痺を病む」とは、腎陽が不足したために肺の陽気も虚し、風寒(燥)の邪に犯されて肺痺となった状態を言っているのだと思います。病症は肺が乾燥しても、肝虚肺燥証のように陰虚ではないので、肺虚寒証や腎虚寒証が当てはまるのではないでしょうか。

 

『素問・痺論篇』には、「風が強いと行痺、寒が強いと痛痺、湿が強いと著痺になる」とあります。蕁麻疹は遊走性が高いので風邪の影響が強く、寒の影響が著しい場合は筋骨を冷やして血行障害による激しい痛みがあらわれ、リウマチ性関節炎などの固定痛は湿との関係が強いと考えられます。同じく、「秋に風寒湿に遇う者は皮痺となり、肺痺の者は、煩満し喘して嘔す」とあるので、冷えによって蕁麻疹が出るケースも考えられます。『素問・五蔵生成篇』には、酒に酔ってセックスをすると肺痺になって寒熱するという記述もあります。酒の力で陽気を発散しながら房事をし過ぎたために、陽気を消耗して冷えた(風寒湿が侵入して悪寒発熱した)と考えられます。『素問・厥論篇』にも、秋冬に房事をすると陽気を消耗するとあるので、やはり肺痺は腎の精気が虚しておきた寒症状から発症するようです。一方で『素問・腹中論篇』では、酔って房中に入ると気竭き肝を傷るとあり、冷えのことは言っていません。精を消耗して腎虚になるわけですが、おそらくアルコール量が過ぎたために、先に子である肝を悪くする人が多かったのかもしれません。

③は『金匱要略・中風歴節病脉證并治 第五』から蕁麻疹の記述です。

 

寸口脉遲而緩。遲則爲寒。緩則爲虚。榮緩則爲亡血。衞緩則爲中風。邪氣中經。則身痒而癮疹。心氣不足。邪氣入中。則胸滿而短氣。

寸口の脈が遅緩の場合、遅脈は寒証、緩脈は虚証を表わす。栄を診るには重按して緩脈なら亡血、衛は軽按して診て緩脈ならば中風を表わす。邪気が経絡に入ると、身体が痒くなり蕁麻疹がおきる。心気が不足し、邪気が中に入ると、胸満して短気する。

心気が不足して胸満や息切れなど肺の症状をあらわすということは、腎の陽気不足によって心の働きが悪くなり、肺が冷えた結果、発症したと考えられます。蕁麻疹や痒みがでる理由は風が経に中ったためとありますが、これは腎陽が有餘して経に熱が停滞したためにおこるとも考えられます。金匱要略ハンドブックによると、「これは衛気が虚して陽気が発散できない程度を述べていて、陽気が発散できない原因を見つけて適薬を選ぶ」とあります。衛気だけ虚して陽気が発散できない状態(裏和表病)は、桂麻各半湯を用いて発汗させたり、津液が虚して虚熱になった状態は、黄連阿膠湯で津液を増やして、熱を取る。黄連(キンポウゲ科の根)は寒苦の作用、阿膠(ロバの皮を煮詰めて抽出した膠)は補陰の作用があるそうです。また瘀血だったら桂枝茯苓丸、水滞なら麻杏薏甘湯が使われるそうです。

 

『金匱要略』が世に出たのは北宋の時代ですが、その元は後漢末期に張仲景が書いた『傷寒雑病論』ですので、ここでは③として配置しました。ここの条文は、②の『素問』の条文に対する張仲景の解釈といえそうです。

 

またも余談ですが、張仲景は三国志の時代を生きた人で、彼の死後に散逸した書を収集した王叔和は曹操率いる魏の大医令ですし、『鍼灸甲乙経』の序文には張仲景が王粲(王叔和と同じく208年に曹操に随い、侍中となった人物)を望診して病気を予見したエピソードが書かれています。張仲景は二十歳そこそこの若者で、侍中の王粲に対して「あなたは病気で、40歳で眉が落ちて半年で死にます。五石湯を飲めば助かります」と言ったけど、それを嫌った王粲は飲まなかった。3日後に、「まだ飲んでないのですね?」と張仲景が問うので、王粲は「飲んだよ」と嘘をついたが、「薬を飲んだ顔色じゃない、どうして命を軽んじるのですか!」と張仲景は王粲の嘘を見抜いた。結局、王粲は薬を飲まず、20年後に眉が落ち、187日後に死んだという話です。皇甫謐は絶賛していますが、時代背景がちょっと合わないです。王粲は217年(建安二十二年正月二十四日)に、呉の討伐を終えて鄴城に戻る途中に41歳で病死したので、張仲景と会った20年半前は196年の6月頃になり、20歳か21歳です。当然、王粲は魏の侍中であるはずがなく、後のボスの曹操だって鎮東将軍になったばかりの頃です。つまり張仲景も王粲も20歳位の若者同士だったということになり、張仲景が建安年間の初期に長沙の太守だったという説とも時代が合わないです。おそらく張仲景が優れた医者であったということを伝えたいがために、誰かが後で付け加えた文なのでしょう。


④は『諸病源候論』から蕁麻疹に関する記述を3つ載せました。aは『巻二・風病諸侯下 五十一 風瘙隱軫生瘡候』、bは『五十二 風瘙身體隱軫候』、cは『五十三 風瘙癢候』です。

 

a.人皮膚虛,為風邪所折,則起隱軫。寒多則色赤,風多則色白,甚者癢痛,搔之則成瘡。

a.人の皮膚が虚して風邪に侵されると蕁麻疹が発生する。風邪が寒(熱)を伴い、熱が多ければ色は赤く、風が多ければ色が白くなる。甚だしきは痒み痛み、これを掻けば瘡となる。

これは風熱による蕁麻疹です。色の違いによって風と熱の度合いを説明しています。

『太平聖恵方』(992年)による校勘では、寒を熱としました。

 

 b.邪氣客於皮膚,複逢風寒相折,則起風瘙隱軫。若赤軫者,由涼濕折受於肌中之熱,熱結成赤軫也。得天熱則劇,取冷則滅也。白軫者,由風氣折受於肌中熱,熱與風相搏所為。白軫得天陰雨冷則劇,出風中亦劇,得晴暖則滅,著(厚)衣身暖亦瘥也。脈浮而洪,浮即為風,洪則為氣強。風氣相搏,(即為)隱軫,身體為癢。

b.邪気が皮膚に客して留まり、また風寒の邪に逢って侵されると、蕁麻疹が発生して皮膚が痒くなる。膨疹の赤いのは、涼湿の邪が肌中の熱を抑えつけ、熱が結して赤くなったものである。天気が暑いと悪化し、冷えれば自ら消失する。白疹は風気が肌中の熱を抑えつけ、熱と風邪が相争うためにおこる。曇りや雨、気候が寒くなると悪化し、外でカゼにあたっても悪化する。天気が晴れて温暖な気候だと、自ずと消失する。厚着をして体を温めても病は癒える。脈診をして浮洪ならば、浮は風邪であり、洪はすなわち気盛んとなす。風と気が相争うために蕁麻疹になり、体が痒くなる。

邪気によって衛気が虚したところに、さらに風寒の邪を受けて蕁麻疹と痒みがおきることを述べています。膨疹の色が赤い理由を、陰性の邪気が体内の熱を押さえて停滞させているからだと解釈し、冷やせば治ることを説明しています。また膨疹の色が白い理由を、風邪と体内の熱が争うためと述べ、身体を冷やしたりカゼに当たると悪化することや、天気が晴れたり、身体を温めたりすれば治ると説明しています。浮脈は風で洪脈は気盛んとは、風邪と正気が邪正闘争をすることで蕁麻疹とかゆみが出ることを述べています。

また、『外台秘要』(752年)で王燾(おうとう)は、「脈診をして浮大ならば、浮は風虚であり、大はすなわち氣強いとなす」と読みかえています。

 

c.此由游風在於皮膚,逢寒則身體疼痛,遇熱則瘙癢。

c.遊走する風邪が皮膚に在るとき、寒さに逢えば身体が疼痛し、熱さに遇えば掻痒する。

風と寒によって疼痛が発生し、風と熱によって痒みが出るということを述べています。

また、リレー講義では省略しましたが、『巻三十七 婦人雑病諸侯十一 風瘙癢候』にも蕁麻疹の記載があったので紹介します。

 

風瘙痒者,是體虛受風,風入腠理,與血氣相搏,而俱往來,在於皮膚之間。邪氣微,不能衝擊為痛,故但瘙痒也。

風瘙痒とは、体質が虚弱で風邪を受け、風が腠理に入り、血気相搏ち、皮膚の間を往来する。邪気が軽微なら血気を衝撃して痛みとすることができず、故にただ掻痒する。

ここでは風邪が腠理に侵入して邪正闘争がされていることや、邪気の強さの程度によって痒みと痛みとに分けられることを述べています。

 

またまた余談ですが、『諸病源候論』は隋の二代皇帝である煬帝の勅命により国家政策として書かれた医学書で、膨大な内容です。著者(あるいは編者)の巣元方は50巻を著すのに5年かかったと言われています。煬帝は暴君として有名で、残酷な処刑を復活させたり、あちこちの国に貢物をしろと迫って戦争ばかりしたり、無茶な土木工事を行なって人心を失ったことで知られていますが、そんな妥協知らずの人だからこそ完成した書なのだと思います。『諸病源候論』ができた610年は、北京(天津)から杭州までの大運河(全長2500km!)が完成した年でもあります。女性にも容赦なく重労働をさせ、戦ばかりして国が傾くと自分は江南に逃れて酒色にふけり、上奏したものは死刑だ!と命令を出すような鬼畜っぷりですが、一方で優れた詩人として評価が高く、静かな村の風景や、長江の夕暮れといった抒情詩を得意としたというのですから、よくわかりません。また、607年の第2次遣隋使の際、聖徳太子が書いた国書(日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや)を読んで煬帝が激怒したという話も有名です。遣隋使は610年、614年にも行っているので、もし聖徳太子が煬帝を怒らせなかったら、当時最先端の医学書だった『諸病源候論』が日本に渡って医学が飛躍的に進んでいたのではないかと勝手に妄想したくなります。結局、隋はすぐに滅んでしまいましたし、中国の医書を土台にした日本最古の医書である『医心方』が書かれたのが984年ですから、『諸病源候論』が書かれてから400年近くが経っていることになります。ちょっと惜しい話です。

長くなってしまったので、続きは次回に書きます。


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